永久の調べ


   永久の調べ 1

 

 青年は虚ろな目で天井を見上げていた。

天井の装飾、そしてそこから吊り下げられたシャンデリアは、質の良い高価な物であるにも関わらず、薄汚れて埃にまみれていた。

青年の居る部屋は広かったが、家具や調度類はほとんどない。

あるのは青年が横たわっているベッドと、その枕もとにある薬や水差しの置かれたこの部屋にそぐわない質素な椅子だけだった。

ベッドの上掛けの上に投げ出された青年の腕は、青白く痩せ細っている。

 青年はただ、やがて訪れるだろう死を待っていた。

そう、その筈だったのだ。

 

 

 

     

 

 深い森の中。

密集する木々の間を難なく擦り抜けていた人物の歩みが止まる。

その人物は聞き耳を立てるかのように首を傾げる。その後、何かを確信したように右肩に負った小さな荷を背負いなおし、進路を変えて、再び歩き始めた。

 木々の合間から差し込む光が、その人物の歩みに連れて揺れる長い髪をきらきらと輝かせる。

美しい銀髪だ。微かに青味を帯びている。まるで清らかな水の流れの如く、光を織り込みながら華奢な背中を滑り、細い腰の辺りで、その毛先から光の粉を振り撒くように揺れている。

この珍しい銀の髪の持ち主は、性別不詳の容姿の持ち主でもあった。

年の頃は十代半ば頃であろうか。とにかく若い。

その白い右手が目の上に落ち掛かる長めの前髪を掻き揚げる。

すると、信じられないくらい美しい顔立ちが顕わになった。

その瞳は限りなく透明に近い澄んだ水色である。

繊細な造りの顔立ちや華奢な肢体は少女そのもの。

しかし、その美しい顔に浮かぶ表情や木々を擦り抜ける動作、髪を掻き揚げる仕種には少年の凛々しさが滲み出る。

それを見た者は、戸惑いながらもこの人物を「彼女」ではなく、「彼」と判断するのである。

黙々と森の中を歩き続ける彼の姿は、森という自然の中に溶け込んでいるようにも、またそこから浮き上がっているようにも見える。性別どころか、人であるかどうかもわからぬ不思議な印象を与える少年であった。

少年がしばらく歩き続けていると、前方に木々の切れ目が見えてくる。

その向こうの開けた場所に泉が湧き出しているのも見えた。

少年は薄紅色の唇に僅かな笑みを浮かべ、泉へと近付く。

水音がする。

どうやら先客がいるようだ。

更に近付くと、泉の辺にいる一人の老婆の姿が見えた。泉の水を一杯に入れた二つの木桶を両手に持ち、運ぼうとしているようである。しかし、老婆にとってはこれらの桶は重過ぎるらしく、少し歩んでは休み、再び歩んでは休みしている。

この調子では森を出る前に、日が暮れてしまうことだろう。

その一生懸命な様子を眺めていた少年は、老婆の背中にごく自然に声を掛けた。

「難儀そうだな、ばあさん。手伝おうか?」

 突然のその声に驚いた老婆は、振り向いて声の主の姿を認める。次いで仄かな光を纏っているかのようなその姿を、ぽかんと口を開け、呆けたように見詰めた。その美しい姿に目を奪われて、ただただ立ち尽くして相手を見詰めるしかない。少年の容姿にそぐわぬ、くだけた物言いにも気付かぬようである。

少年はそんな老婆に近付いて、細い腕でひょいと水の入った桶を持ち上げる。

「ああ、もう半分しか水が入っていないじゃないか」

 そう言って、再び泉の辺へ引き返すと、木桶にたっぷりと水を汲み直す。見掛けよりはずっと力がある腕で木桶を持ち上げながら、老婆へと問い掛ける。

「ばあさん、この水を何処へ持って行けばいいんだ?」

 その問い掛けにやっと老婆は我に返ったようだ。

「まぁ、そんな…見ず知らずの方に運んで頂く訳には参りませんわ」

 上品な言葉遣いで遠慮する老婆に、

「別に構わない。俺がやりたいからやるって勝手に言ってるだけなんだから。さぁ、早くしないと、日が暮れる。どっち?」

と、少年は老婆を促す。

「すみません。こちらです」

 やはり、老婆の方も少年に運んでもらった方が良いと判断したらしい。先に立って、道案内を始めた。

その老婆の後ろに両手に桶を持ち、背に自らの荷を背負った少年が続く。

老婆は後ろの少年を気にしながら進む。森を出て、少し道幅が広くなると、少年の横へと並んだ。そして、黙ったままの少年に、

「あの…重くはございませんでしょうか?」

と、遠慮がちに問う。

「これくらいは平気だよ。俺はこう見えても、力仕事には慣れているんだ」

 そう少年は快活に応えると、少々悪戯っぽく微笑みながら、横にいる老婆を見る。

「ばあさんはこういったことには慣れていないだろう」

 老婆は苦笑する。

「お分かりになりますか」

「あんたの物腰とかを見たらね。農家の生まれじゃないことくらいは分かる。そうだな…商家か、上流階級に仕える使用人の家の生まれ、といった感じだ」

 少年のその言葉に老婆は少なからず驚く。

「そこまでお分かりになるのですか?」

「いや、ただの勘。言葉遣いからそう思っただけ」

 感嘆したような老婆の言葉に、少年は何でもないことのように、軽く応えた。

そんな少年の様子を眺めていた老婆は、小さく噴き出した。控えめな笑い声を上げながら言う。

「初めて貴方を見たときは、びっくりしました。あんまり、お美しいものですから。泉の精が現れたのかと思ってしまいました。実はさっきまで疑っていたんですのよ、この泉の精は(わたくし)をからかうために現れて、森を出た途端に消えてしまうのではないかって」

「俺は人間だよ?」

 心持ち首を傾げながら言う少年に、老婆は微笑んだ。

「えぇ、そうですわね」

 少年の美貌は浮世離れしているが、その仕種、言葉使いは真に人間らしい、無邪気な少年のものだ。

「あの泉の水は古くから癒しの効果があると言われておりますの」

「へえ。だからあんたはわざわざあんな森深くまで水を汲みに来ていたんだな」

「…ええ…ほんの気休めにしかなりませんのにね…」

「気休め?」

 あの水には本当は癒しの効果など無いのかと首を傾げる少年に、老婆は寂しげな笑みを返した。

 その笑みが気になった少年ではあったが、行きずりの自分が個人の事情に首を突っ込む訳にはいかない。その笑みの意味を問うことはせず、先へ進む。

 二人で並んで小道を歩いていると、すぐに小さな町に辿り着いた。

その人気の無い通りを真っ直ぐに進みながら、老婆が突如思い出したように口を開く。

「まあ、私ったらお手伝い頂いている方に、名乗りもせずに。…失礼致しました。私はカトレーヌと申します。先程貴方がお察しになったとおり、つい先日までこの町の領主様のお屋敷に仕えていた者です」

「つい先日まで?」

 そう問い返した少年に、老婆はやや表情を曇らせながら頷く。

「はい。今まで仕えていた使用人たちは皆、御領主様からお暇を頂きました…」

 そこまで言って、カトレーヌは気を取り直したように顔を上げ、微笑みながら少年に問う。

「貴方は旅のお方ですか?お名前は何と仰いますの?」

そのとき、秋近い涼しい風が吹いて、少年の青銀の髪を舞わした。

少年の目の上にその髪が振り掛かかり、細い首にも絡み付く。

少年は首を振ってその髪を払いながら、美しい笑みを返す。

「オウカだよ。(さき)桜花(おうか)。渡りの医者をしている」

茜色の夕暮れの中。

そう言った少年の銀の髪が、風に靡いてきらきらと輝いた。



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