聖なる水の神の国にて〜涼夏〜
夏の訪れ 1
少女は待っている。
ただ一人の恋しい人を。
彼は言った。
きっと迎えに来ると。
自分はまだ未熟で、少女を幸せにすることはできない。
けれど、彼の父に認められ、しっかりと家を継ぐことができたなら。
そうしたら、きっと少女を迎えに行くと。
きっときっと迎えに行く。
この約束を決して違えはしない。
少女はこの言葉を信じている。
だから待っている。
ずっと。
ずっと。
彼が笑顔で腕を差し伸べてくれる日を夢見て。
少女は何時までも待っている。
荘厳な響きを持つ鐘が鳴り響く。
常は人もまばらな神殿内は今、多くの神官とここの神学院で学ぶ学生たちで埋められていた。
しかし、神殿内を包むのは静寂。
人の気配に満ちた静寂であった。
神殿は夏の祭礼の真っ只中であった。
水を司る聖水神を祀るこの神殿では、様々な祭礼が行われる。
特にこの四季毎に行われる祭礼は、国王の王位継承の際に行われる神への伺候の儀に次ぐ大きな祭礼の一つである。
それ故、この祭礼では神官のみならず、神学院生も揃えて行われる。
神殿の奥正面に設えられた祭壇に向かい、祭礼の衣装を纏った学生たちが整然と並ぶ。
前方から順に神官、学院の三年、二年、一年の学生たち、といった並びだ。
学生たちが身に纏う制服は、意匠は同じ詰襟の長衣であるが、学年ごとに色分けがなされている。
一年は黒、二年は灰色、三年は白、といった具合である。
神官の纏う官服は三年と同じ白。
今、神殿を埋める人々は白と灰色、黒に整然と色分けされていた。
風矢・フローベルは最も後ろに位置する一年の列の中、前方の祭壇を見詰める。
祭壇前では学院生の一人が儀礼で使用される聖典の文句を読み上げている。
このように祭礼で学院生の代表として祭壇の前に立つのは、通例として学院内で最も成績の良い最上級生と決まっていた。
しかし、前回の春の祭礼と同様、今回もその例外であることをここにいる誰もが知っていた。
今、祭壇の前に立つのは、恐らく学院内で二位の成績の者。
では、本来前に出るべき首席は何処にいるのかというと……
風矢は祭壇前から後方へと視線を彷徨わせる。
風矢の居る場所からはかなり距離があったが、彼はすぐ目的の人物の後ろ姿を見付けることができた。
そのほっそりとした優美な後ろ姿。
三年生が並ぶ列の最後尾で、背筋をすっと伸ばして立っている。
彼の名は華王・アルジェイン。
国内の貴族の子弟が多く学ぶ神学院内では珍しい他国からの留学生だ。
そして、彼こそが入学当時から現在に到るまで首位の成績を維持し続けている学生なのである。
それだけでも学院内の注目を集めるには充分だが、彼は更に人々の視線を集めずにはいられないものを持っていた。
その美しい容姿である。
彼は周りの少年たちと比べてかなり小柄だ。
真っ直ぐ伸びた背中や長い手足の造りは華奢そのもの。
上半身が身体にぴったりするように作られている制服を纏っているので、その細さが隠しようもなく露わになっている。
しかし、彼の立ち居振舞いは常に堂々としている。
毅然とした動作は、凛としていて脆弱さなど微塵も感じられない。
儚い麗姿に凛々しい仕種。
脆さと毅さの両方を併せ持つ彼の姿は、男性ばかりの神殿、或いは学院内にあっては否応なく、目立つ。
今現在も列の最後尾という目立たぬ位置に居ながらも、憧れを秘めた下級生たちの熱い視線を一身に集めている。
もちろん風矢も熱い視線を注ぐ一人だ。
しかし、当の本人はそれだけの視線を注がれながら、姿勢を崩しもしない。
その艶やかな漆黒の髪に覆われた小さな頭は、前方の祭壇に向けられたまま。
その様は自分に向けられる多くの視線を超然と無視しているかのように見える。
しかし、風矢は知っている。
華王は視線を気にしないのではない。
まるで気付いていないのだ。
自分が多くの視線を集める存在であることに全く気付いていない。
思いもよらないのだ。
そんな華王の鈍感さを知っている者は、おそらく学院内では数えるほど……そう、二、三人程度だろう。
その二、三人の一人であることが風矢の密かな自慢である。
それにしても、厳粛な祭礼の最中に神学生ともあろう者たちが祭壇の方を見ないのは如何なものか。
しかし、幸いにも風矢たちにとって祭壇と憧れの君の居る方向は同じ。
やや、祭壇よりも下寄りではあるが。
おかげで下級生たちは不謹慎な振る舞いを神官たちに咎められることなく、祭礼を終えることができた。
この夏の祭礼が終われば、学生たちは長い夏期休暇に入る。
全寮制であるこの神学院は、規律が厳しい。
学院生活においては特に理由がない限り、外出は禁じられている。
学生たちは寮と学院、或いは神殿を行き来するのみの閉じられた世界で、ひたすら勉学に邁進するように仕向けられるのだ。
そんな学生たちにとってこの長期休暇は、家に帰ることのできることに加え、学院の外の世界へ出ることができる唯一の機会という意味でも、貴重な欠くことのできないものである。
祭礼を終えて、神殿から出て行く学生たちの足取りは心なしか軽やかだ。
「風矢、休みの間はお前も家に帰るだろう?」
隣を歩く友人の涼・グランの言葉に風矢は頷きを返す。
「家から戻るようにっていう手紙もきたから。まあ、普通は戻るだろうな。休暇中も寮に残るなんていう学生はあまり居ないと思うけど」
「そうだよなあ」
風矢の言葉に同意した涼は、ふと真面目な顔になり、風矢に顔を寄せる。
密やかな声で訊いた。
「なあ、休みの間はどうなのかな?…ほら、神官長の能力開発の講義とかいう奴」
風矢は同じように声を潜めて応える。
「…さあ、どうなのかな?今のところは何も言われてないから、多分休暇中はないと思うけど」
「そっか」
涼は顔を上げる。
「でも正直言って羨ましいよ。あの華王様や流星先輩と一緒に神官長からの直々の講義を受けられるなんて」
「…僕が選ばれたのは偶然だよ。それに良いことばかりでもないし」
「それは分かってるけどさ。それでも羨ましいことには変わりないよ」
屈託なく笑う涼に、風矢は苦笑めいた笑みを浮かべることで応えた。
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